ウツギの唐突なる書箱

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書評『羊たちの沈黙』~なぜ獣と闘い、なぜ人を喰らう?

この記事について

羊たちの沈黙(上) (新潮文庫)

前知識

前作レッド・ドラゴンに続いての読書。

私は『レッド・ドラゴン 決定版』巻末の付録(日本の作家さんによる書評)にて、『羊たちの沈黙』『ハンニバル』の概要を知った。クラリススターリングはレクター博士に認められ、協力関係となる人物――である。

その書評の中に、こんな問いかけがあった。

「なぜグレアムはレクター博士の相方として不適格と判断され、クラリスには資格があったのか。(クラリスが美女だからか? 否、)それはグレアムが自身の能力を恐れ続けたからだろう」

……うろ覚えで申し訳ないが、だいたいこんな論調だったと思う。私はこの分析を念頭に、クラリス人間性及びレクター博士との関係を観察することになった。

 

止まらない初読の後に

私は夕食後に上巻を読み終えると、一冊ごとに感想をまとめる流儀を破って下巻を開き、深夜3時半までノンストップで読んでしまった。

クラリスが次々と直面する試練を単独突破していく序盤も高揚したが、バッファロウ・ビル事件捜査に突入してからの緊迫感はすばらしかった。時折挿入される犯人視点のおかげで常にタイムリミットを意識させられ、おそらく助かるだろうと思ってはいても読むのが止められなかった。

 

本作には前作のような、読者(つまり私)をもてあそぶ派手な仕掛けはなかった。上巻で奪われたものや問われたものは、下巻で不足なく回収された。レクターがこれからも殺人を重ねるであろうとはいえ、心情的には大団円だった。

そして、クラリスレクター博士の会話は、何度も読み返さずにはいられなかった。二人の駆け引きには音楽のようにリズミカルな心地よさがあった。

そして、水の流れのような会話の向こうに、何かを透かし見ることができる気がした……一読しただけでは気づくことのできなかった事柄が、今回も隠されている気がしたのだ。

 

そして読み返すうちに、レクター博士の態度の裏側にある、彼の「恐れ」がようやく見えてきた。今回はそれを中心に語る。

 

なお私はハンニバル・ライジング未読であり、レクター博士の過去設定をまるで知らない。同作も近いうちに読むので、そこで自分の読みがどの程度当たっていたか知るだろう。

的はずれなことを書いていたら、それはそれで己の思考の偏りが見えて、微笑ましい気持ちになれるだろう(私自身が)。

 レクター博士への考察――食人鬼に至るまで

行動、表に視える情動

「非礼は私にとって醜悪」

クラリスとの最初の対話シーンで、彼は今までに見せなかった一面を露わにする。ミッグズの「非礼」への動揺である。

……クラリスはこれを「珍しく」と評したが、読者(つまり私)にとっても「珍しく」感じる姿だ。

彼がこれまでに表した感情は一種類しかなかった。「愉楽」……具体的には、他者の苦痛や戸惑いを高みから見下ろして愉しむ。それが彼の常なる表情だった。

しかしこの場面で彼は、災難に見舞われたクラリスに(一瞬だが)心から同情している。この瞬間、彼の心はクラリスに近い「高さ」まで降りてきている。

彼自身はその動揺に対し、「非礼な行いは私にとって醜悪なことなのだ」と説明をつけている。確かに彼は品性を重んじている(ように振る舞っている)ので、この説明に矛盾はない。しかし、これがいかにも取ってつけた弁解に聴こえるのは、私だけではないと思う。

 

知性の誇示

そもそも礼儀とは何のためにあるのだろうか。人に不快感を与えず、社会集団に溶け込むためだろうか。自分を魅力的に見せて、人に好かれるためだろうか。

しかしレクターはそのどちらにも価値を感じていない。捕まる前はそういう「好かれる」人物を演じていたのだろうが、そういうことを心から求めていないのは、現在の他者への行為を見れば明らかである。(そういえば、彼はクラリスとの二度目の対話にて、「誰もが(人に好かれたいと思っているわけ)ではない」と述べている。)

 

では、人に好かれることや受け入れられることをどうでもよく思っているのなら、彼が獄中でも品性を保っているのは何のためなのか?

 

礼儀が示すものは人格の優良さだけではない。教養、自制心と自己コントロール力の高さ……まとめて言えば「知性」の高さである。

質問への答えは、「彼自身が『知性において他者より優れた自分』に誇りを持っているから」に他ならない。踏み込んで表現すれば、彼はそれを示すことに「執着している」のである。

そんなことはわざわざ分析しなくてもとっくに明らかじゃないかと思われるかもしれないが、この点に改めて注意することは、彼のコンプレックスを読み解く上で重要だったのだ。

さりげなく散りばめられるヒント

そういえばクロフォードも、「彼は自分を賢く見せずにはいられない。それが唯一の弱点だ」というようなことを述べている。チルトン院長も、「お前は見下されることにだけは耐えられない」という主旨の発言をしている。

 

こうして何度も強調される要素はそれだけの重要性を持っているのだが、一度目に読んだ時には全然気づかず通り過ぎてしまうものだ(私はそうだった)。

 

レクター博士も作中でこの手法を用いていた。クラリスの思考を犯人ジェイム・ガムへ繋げるために、裁縫と関係のある言葉を会話に散りばめていた。

レクターが他の登場人物に行う「操縦」を、トマス・ハリスも読者に対し行っている――前作『レッド・ドラゴン』にもあった構図だ。

またしても、という空恐ろしさを感じずにはいられない。

 

瞳の描写が表すもの

レクター博士について繰り返し描写されることに、彼の瞳の様子がある。

濃い栗色の瞳の中に時折散る火花。この「火花」は彼の感情が揺れた時に現れる。ミッグズの非礼に動揺した瞬間、裁判所の牢でクラリスと指が触れ合った瞬間(なんて詩的でエモーショナルな場面だろう)。

他方、瞳の闇に火花が沈み消えていく様子も幾度か描写された。闇は彼の感情を覆い隠すもの――知性を象徴している。誰にも計測できない知性、彼と他の人間を遠く隔てる知性である。

 

この描写も初読時には、単なるビジュアルの描写、彼のミステリアスさを強調する装飾くらいにしか思っていなかった。

しかし、闇(知性)が火花(感情)を覆い隠しているこの有り様こそ、彼の心を如実に表していたのだと今ではわかる。

 

本作のテーマ――己は何者か?

「自分を直視する」

ここで一旦、本作全体の話に移る。

 

本作の始まりは、クラリスがレクターのもとへ、異常犯罪者プロファイリング作成のためのアンケートを依頼しに行くという状況設定だ。一見、候補生という立場のクラリスがレクターと接触するためのお膳立てである。

しかし、「アンケート」を取るという小目的自体にも意味があった。「自分を直視する」ことが本作のテーマだからだ。

 

レクターとクラリスの対話の中でも、この初回の駆け引き、丁々発止の探り合いがもっとも小気味よい。中でも見事なのが、全てを見透かしたかのようなレクターの発言に対する、クラリスの切り返しだ。

 

「あなたはその洞察を自分自身に向けるだけの強さを持っているのかしら?」

「生易しいことではありませんよね、自分を直視するのは」

 

会話自体が機智に富んで魅力的なため、メタ的な意味合いを見落としていたのだが、クラリスの問いかけは下巻での彼女の試練に繋がっていた。

当初、彼女は出世こそが己の大目的だと信じていた。それは粗野な育ちへのコンプレックスの表れだった。

そしてコンプレックスが生まれた原因は、殉職した父が軽んじて扱われたことへの悔しさ、困窮や一家離散といった経験だと、彼女自身も考えていた。

 

しかし、彼女を動かすエネルギーの真の源は「羊たちの悲鳴」であった。他者の苦痛を己のもののように感じる共感、それがクラリスを駆り立てるものだった。

羊たちを救う力を希求するがゆえに、FBI捜査官という職種を選び、自己研鑽に励んできたのだ。

 

経歴を守るために学校へ戻るか、キャサリンの命のために捜査を続けるか。その選択への答えが、彼女が何者であり、なぜ闘うのかを示す答えだった。

もしもトラウマを直視していなかったら、彼女は出世という仮初めの目的を優先していたかもしれない。

 

自分を直視できないジェイム

本作の犯人役ジェイム・ガムは、自分が何者かわからないがゆえに奇異な犯行を繰り返している。

蛹から蛾への変化に、彼は自分自身をなぞらえる。しかし、彼が抱いているのは性転換願望や女性の姿への憧れではない。「きれいなママ」を自身に投影しようとするのは、母に棄てられ、母を求めるがゆえである。

本当に欲しいのは母の愛なのに、「きれいになる」という偽りの目的に固執する。ゆえに彼は満たされない。

ラスペイルはジェイムを「虚無」そのものと形容する。さすが芸術家だけあって本質を突いている。

 

虚無への抵抗

クラリス虚無を抱えている。レクターに看破される、ビーズのネックレスのくだりだ。

 

「あのネックレスすら無価値になってしまうのなら、この先、輝き続けるものなどあるのだろうか?」

 

 出世すればするほど、頭が良くなれば良くなるほど、かつて憧れたものは無価値になっていく。ネックレスも、地位も、恋人も。手に入れては捨て置く、果てしない道のり。

偽りの目的を追いかけるかぎり、虚無を抱え続けることになる。

 

余談だが、チルトン院長も虚無を抱えている一例だろう。彼はクラリスに孤独を見抜かれたとき、彼女の「直視」に耐えられなかった。

彼の虚無はおそらく親密な愛情によって満たせるのだが、彼は名声や人気でそれを埋めようとしているのである。

 

自覚のあるコンプレックス――自律性を失うこと

「君はいかにして怒りを制御するのか?」

博士が上巻終盤で、クラリスに「怒りを制御する方法」を問いかけた。

私はなぜ博士がこんなことを問いかけたのかわからず、唐突に感じた。

 

確かにクラリスの自制心は際立っている。何度挑発されても感情に振り回されず、目的へ照準を戻す。私は彼女がサイコパスなのではないかと疑っていたほどである(トンチンカンな読みをしていたものだ)。

そういった彼女の資質に関する問いかけなのだろうか、とぼんやりスルーしていたのだが、これは博士が自身のために知りたいこと――自身に欠けていると見なしている要素だったのだ。

 

問いかけの後、博士はラスペイル殺害時のことを(神経を張り詰めさせてまで)思い返す。

ラスペイルが語り終えた瞬間、レクターは彼を短剣で一突きにした。時間をかけて嬲ったりは一切しない。殺す行為自体を愉しんではいないのだ(サディストが皮剥ぎをする時は、獲物が意識を保ち続けるよう逆さ吊りにする……という解説もあったことだし、間違いないだろう)。

 

この追想が意味すること……それは彼がラスペイルに怒りを感じていたということだ。

ラスペイル殺害の動機

彼はラスペイル殺害の動機を、泣き言に嫌気が差していた為だと語った。いずれ殺そうという計画性、憎悪の蓄積はあったのかもしれない。

しかし引き金となったのは、「両親はどうして、私が二人を騙す前に私を殺してしまわなかったのか不思議だね」というラスペイルの言葉だったように見える。

 

この言葉は、直前のジェイムについて語る台詞とは直接繋がっていない。どういう文脈で出てきたのか明らかでない。

だからこそ、この言葉には博士の怒りを喚起する要素が含まれていると考えるべきだ。

 

常に自律的であろうとすることの裏側

レクターはクラリスに、「私に何かが起こったのではない、私が起きたのだ」と主張する。

他人の失点による悪事などないと語る。異常に見える行動も、自分で考えて選択しているのだと主張する。「自律的」であることをこれでもかと強調する。

 

他人の言動に対して「反応的」「受動的」、あるいは「感情的」になること。それは彼にとって不本意だ。

ラスペイルに対して怒りを抱き、怒りに動かされ殺害したこと。それは彼にとって自律性を揺るがされた、不快な出来事だったのだろう。「ヴァレンタインデーに関する愉快な思い出」と語ったのはその裏返しだ。

 

日頃の態度のみを見ていると、それは「賢く見られないこと」や「侮蔑されること」を恐れるゆえの行動に見える。クロフォードやチルトンが指摘した、彼の弱点だ。

 

だがこれは、クラリスが粗野さを隠そうとすることや、ジェイムが男性的特徴を隠そうとすることと同じ、偽のコンプレックスである。

 

真の欲求――なぜ人を喰らうのか?

彼にとっての愉楽

ミッグズへの自殺教唆に関しても、「反応的」「感情的」になることへの否定が表れている。

彼はミッグズが勝手にやったこととうそぶきつつ、「ある種の調和」を感じないかと語る。言外に、愉楽を求めてやったのだと強調しているのだ。

だが実際には、ラスペイルの時と同じく「自分に怒りを感じさせた」がゆえに殺したのだ。あるいは「感情の揺れ動きを感じさせた」がゆえに。

 

 

「非礼なことは私にとって醜悪なのだ」と語ったときの彼は、「自分の蛮行は人を殺すことによって帳消しにされた」と言いたげだった。(初読時には、単に尊大さを強調する描写に思えた。)

 

レクターの考える「蛮行」とは、怒りなどのネガティブな感情によって動揺することである。

そして、「愉楽」はそれを打ち消すのに役立っている。

愉しむためにやったのだという後付けの解釈をつけることで、彼は動揺を隠すことができる……他者に対しても、自分に対しても。

 

 

人を料理し食べる行為も、この一端を担っている。

ダラハイドやジェイムの異常行動が彼らの職業と繋がっていたように、この「食べる」というチョイスも、レクターが美食家であったことがきっかけなのかもしれない。日常的に目にするものを欲したのかもしれない。

 

だが、食人が選ばれたのには他にも意味がある。それが倫理的な禁忌だからだ。

あえて禁忌を冒すこと。他者の苦痛を悦ぶこと。彼はそれによって何を埋め合わせようとしているのか?

 

行動と欲求のギャップ

行動と(真の)欲求にはギャップがある――このポイントもたびたび強調されていた。

 

レクター博士の発言に、「行動主義」を批判する部分がある。(直後の「私は悪か?」に目がいきがちな段落である。)

善悪とは行動、つまり物理的に為されたことではなく、何を求めて行われたかによって決まるのではないか。発言の要旨はそんな感じだと思う。

 

また、彼は異常犯罪について解説する際、「怒りが性欲の形を取ることもある。狼瘡が蕁麻疹になって現れることもある」と述べる。2回も述べる。

 

この行動と欲求のずれは、博士自身にも当てはまっている。

 

真に求めること

彼が目をそらしたがっているものについて、更に細かく分類しよう。

レクターは自分をさんざん侮辱したチルトンや、自分を長らく閉じ込めるのに一役買ったクロフォード、そしてグレアムへの恨みや憎悪は特に否定しておらず、隠してもいない。彼らに侮辱を返し、あれこれ嫌がらせしている行為を見れば明らかである。

 

彼が否定した感情は、「義憤」に類するものだ。

 

クラリスを傷つけたミッグズへの怒り。そしてラスペイルへの怒り――

恋人が殺されたことや、両親を騙したことを、自慢げに語ってみせる男への怒りと憎しみである。

 

彼は他者のために怒る行為にコンプレックスを抱いている。裏返せばそれは、他者に心から同情すること、感情移入すること、共感することへの恐怖である。

 

この恐怖の対極にあるのが「愉楽」である。自分は他者の苦痛を悦ぶ者なのだ。人を喰らい、人倫を踏みにじる者なのだ。そう思い込むことで、彼は己の内なる痛みから目をそらしたのだ。

 

トラウマ――悲鳴に耳を塞ぐ者

コンプレックスへの考え方

前作のダラハイド、今作のジェイムの異常犯罪には、どちらも幼少期の不遇な環境やトラウマが大きく関係していた。

クラリスのモチベーションもまた、子供時代のトラウマを解消したいという欲求が形を変えたものだった。

 

ならばレクターの欲求も彼の生まれ育ちに起因している、と推理してもよいだろう。

彼は他者に同情したり、苦痛に共感したりすることを否定されたのだ。あるいは、否定しなければ自分が潰れてしまうような出来事、環境の中で育ったのだ。

 

彼もまた、「羊たちの悲鳴」を聴いたのだ。

 

ソシオパスという誤診

「意味のないシーンがない」ことで私を感動させてくれるトマスだが、ミッグズと入れ替わりに牢獄に入ってきた統合失調症の男性(名前を失念した)のエピソードにも、【裏】の意味があった。

これはチルトンの診断の誤りを指摘する会話なのだが、レクターに対する診断の誤りをも暗示している。 レクターはブルーム博士に、掛け値なしのソシオパス(反社会性パーソナリティ障害)と診断されている。

共感の欠如、他人のニーズに無関心、反省の欠如……レクターの行動や態度を見れば、確かにばっちり該当している。

しかし、先述の推察が正しいとすれば、レクターは根っからのソシオパスではない。彼は共感を持たないのではなく、共感を無視し、抑え込むことが習慣化しているのだから。

 

「私は悪か?」という問いかけ

彼の高い知性は、共感の抑制に大いに役立っている。彼が他人を見透かしたがることもその一環である。自分は感情的に共感するのではなく、推測し分析することにより洞察を行うのだ、と主張している。思い込もうとしている。

また、彼は自分と他者を徹底的に切り離して考える。「この世に他人の失点による悪など存在しない」等の発言や、「彼は同情で思考を抑制しない」等の描写にそれが表れている。

これらの裏にあるのは、自分がトラウマに「動かされている」ことへの否定である。

 自らを悪であると強調し、教会崩落の事例を収拾するのも、「悪のロールプレイ」により「他者の苦難への共感」を封印できるからなのだ。

 

 

まとめ――クラリスとレクター

クラリススターリングへの疑惑

上巻を読む間、私が最も警戒していた相手は他ならぬクラリススターリンである。本作は『レッド・ドラゴン』に比べ、一人称的な視点で叙述がなされる比率が大きい。この一人称的見方によって、クラリスの闇が「あえて叙述されず」、隠されている可能性を疑っていたのである。

そして、本作から導入されたモノローグ・システム(字体の変わる部分)。このモノローグがやがて残忍な本性を現すのではないかと、勝手に戦々恐々としていた。

 

 実際にはクラリスには年相応の情緒も脆さも備わっており、それはレクターと初めて面会した日の夜の描写でも明らかである。それでも思い込みの影響は強固なもので、私はいつ彼女の闇が表へ浮かび上がってくるかと身構えていた。

「人間は己の内にあるものしか見ない」状態である。

 

こんな見方をしていた原因のひとつは、前作にてグレアム、レクター、ダラハイドの三者が共通の特質を持っていたことだ。クラリスもレクターと通じる性質を持っているだろうと確信していたのである。

 

サイコパス性でこそなかったが、他者の苦難への共感に生き方を左右されている点で、彼らは確かに共通していた。

 

彼女でなければならない理由

冒頭で、「なぜグレアムは失格で、クラリスは選ばれたのか」という話を紹介した。

 

私の推論では、レクターが彼女に惹かれたきっかけは、並ならぬ自制心に対する憧れだ。

グレアムは「自分と同じ」要素を持つ者だったが、クラリス「自分に欠けている(と彼自身が考えている)」要素を持つ者だったわけだ。

 

そして、クラリスをより深く理解しようと過去を聞き出すうちに、彼女が他者の苦痛に動かされる者であると明らかになった。

それはかつてのレクターである。クラリスを助けることは、かつての自分を助けることに繋がる。

 

レクター博士がこのことにどの程度自覚的だったのか定かではない。しかし、「羊たちの悲鳴を止められると思うかね?」と尋ねた後、彼は安らぎを感じている。

自覚的にしろ無自覚にしろ、クラリスを助けることで彼の傷は幾許か癒やされたのだろう。

通じ合う星、沈黙と音楽

他者への共感を避けるということは、他者からの共感を避けるということでもある。

そのために彼は内面をひた隠し、分析も治療も回避する。高い知性がそれを容易にしてしまっている。

エピローグ時点においても彼は変わらず、利己的なスタンドアローン、涙を餌とする者である。それは手放せない悪癖、生涯続く認知の歪みなのかもしれない。

 

一方、変化もある。

彼の内的世界には音が乏しいという描写があった。ラスペイルの言葉を「神経を張り詰めさせて」思い出す部分である。

裁判所に移された後、彼は音楽を求めた。ホテルに落ち着いた後にも音楽を聴いている。

クラシックピアノというチョイスは知性の誇示にこだわる彼らしいが、他の娯楽を差し置いて音楽を求めたことに、私は「ある種の調和」を感じた。

 

視覚的な感動は「観察」であり、分析的である。嗅覚の鋭さはまさに捕食者をイメージさせる。

一方、音楽への没入は複雑な感情、特にノスタルジーなどのセンチメンタルな感情を喚び起こす。脳に「自己の喪失」を起こさせるという研究もある。

 

クラリスに騙されたと知って信頼を失った彼は、無意識に喪失感を埋めようとして、音楽を求めたのではないだろうか。

そして、オリオン座を眺めながら彼女に思い馳せる間もまた、心が繋がっている感覚を音楽に求めたのではないだろうか。

 

エピローグを読み終えた時、私はなにかの始まりを予感した――それは、「われわれの星には通じ合うものがある」という言葉だけでなく、音楽への直観だったのかもしれない。

 

クラリスが祝福すべき沈黙を勝ち得た一方、彼の虚無には音楽が流れるようになった。

――そんなふうに考えるのは、情緒的すぎるだろうか。

 

2019.06.07

 

羊たちの沈黙(上) (新潮文庫)

羊たちの沈黙(下) (新潮文庫)