ウツギの唐突なる書箱

読んだ本、観た映像、ほか調べた事などを語り散らす。

書評『レッド・ドラゴン』~無自覚な意識を引きずり出す、魔術じみた筆力

レッド・ドラゴン 決定版

レッド・ドラゴン 決定版〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

そもそものきっかけ

私は本をめったに読まない(が、最近は乏しい集中力をふり絞って読もうとしている)。

特に、推理小説、警察小説の類にはことさら関心がなかった。かつて読んだ推理小説の短編集が、同じような構成の焼き直しばかりで退屈だったからである。

大どんでん返し創作法: 面白い物語を作るには ストーリーデザインの方法論 (PIKOZO文庫)


レッド・ドラゴン』を読もうと思ったのは、『大どんでん返し創作法: 面白い物語を作るには』の中で、秀逸な作品として挙げられていたゆえだ。犯罪小説である点どころか、ハンニバル・レクターのプロフィールすら知らないで読み始めた。

無知も無知な読み手だが、かえってフレッシュな体験ができたのではないかと思っている。

――この本が私に与えてくれたのは、主体的な「体験」と呼ぶにふさわしい、振り回され、考え、発見していく過程であった。

 

上巻と下巻のそれぞれを読み終えた時点で、私が物語に返した「レスポンス」は真逆のものであった。

 

※※※※※※以下ネタバレ祭り※※※※※※

(当ブログは作品の「紹介」が目的ではなく、既読の方と感想をシェアすることを目指すものです)

 

 

★概要とストーリー
 

舞台設定

異常犯罪捜査の専門家ウィル・グレアムが、大量殺人犯の「噛みつき魔」ダラハイドを追う物語。

「食人鬼」ハンニバル・レクターの初登場作品だが、作中では彼は既に投獄されており、グレアムと「噛みつき魔」双方に助言を与えたり唆したりする。

 

キーとなる存在

主人公グレアム、犯人ダラハイド、そして両者にちょっかいを出すレクターには共通点がある。彼ら3人は、一般人には理解し難い想像力、感性、高い知性を持った異才である。

特に上巻ではこの点が幾度も強調される。


本書の特異性


この本は上下巻を通して、2つの大きな「反転」を読者に起こさせる。

ひとつは、「人間性」に対して読者が抱いている無自覚な認識について。

もうひとつは、「これは何を目的に書かれた本であるのか」という作品の性質そのものへの認識についてである。

 

★上巻での誘導と印象

グレアムへの共感


上巻では、読者(つまり私)の感情移入の対象は当然、犯人を追うグレアムである。グレアムは高い投影能力で犯罪者の思考を読み、マニュアル的な捜査では得られなかった証拠を見つけ出していく。


その中でグレアムは、自分が異常犯罪者と同じ発想を持っていること、彼らと同じ素質を有していることに恐怖し、悩む。才能を発揮すればするほど、彼と周囲の人間との差は浮き彫りになり、孤独になっていく。

レクター博士の蛇の毒のごときメッセージが、一層それを強調する。

 

犯人への異端視


しかし神の目線をもつ読者には、犯人ダラハイドがいかに利己的で、身勝手極まりない論理のもとに殺人を繰り返しているかが視えている。
当然、読者(つまり私)は、グレアムとダラハイドの差異を強く意識する。

グレアムに対し、


「そんなことはない。あなたは罪のない人々を守るために犠牲を払っている。あなたと殺人犯の人間性は、まるで異なる。いくら行動を推察し、トレースしたところで、それは表面的なものに過ぎない。大量殺人者の思考と倫理観は、大量殺人者ではない者のそれとはかけ離れているのだ


……と、励ましてやりたくなる。
(※上記の「アドバイス」は、私が上巻を読み終えた時点で、実際に読書ノートに書き留めていたものである)

察して頂いたかと思うが、私が「反転」させられたのはこの部分である。

 

『上質なエンタメ』という空洞

私は上巻を読みながら、しきりに感心していた。文章運びがあまりにも巧く、無駄がなく、スピーディーで、行動の描写のみでキャラの心情を表し、読者の想像力を刺激している。(もちろん、翻訳者さんの手柄でもあろう)

〈噛みつき魔〉からの電話だと思われたものが、実はゴシップ記者ラウンズの悪質な悪戯だと判明するシーンなど、グレアム達と同じ空間にいるかのような緊迫感と脱力を味わった。

その後の囮作戦、嵐の前の静けさ、おそらく大半の読者が予測したであろうラウンズの悲劇、ラストのひとひねり。上巻だけでもお手本のような構成だった。

 

私は小説を読むのがさほど好きではない。名作と呼ばれる作品でも、読むのを苦痛に感じることが少なくないし、読み終えるまでページが何割残っているか、しばしば確認してしまう。

この小説にはそういった苦痛がほとんどなかった。ひとつひとつの文章が心地よく、常に先の展開が気になった。

 

でもそれだけだった。

 

読み終えた時点で、「Q.著者は何を伝えたかったのだろうか」というクエスチョンに対し、

私は「何よりも、読み手を作品の空間に没入させ、スリルを味合わせることを重視して書かれた娯楽作品である。」と答えた。

 

この小説の前半部分には、「作者の主張」が無かった。

 

時代的・社会的背景をご存知の人なら「いやいやそんなことないよ」と解説できるのかもしれないが、少なくとも1981年のアメリカを知らない私には何も伝わってこなかった。

 

強いて哲学的な部分を挙げるなら、友人クロフォードがブルーム博士との会話で語った言葉だ。

「俺は彼(グレアム)に嘘をついて騙したりは絶対にしない。われわれみんながお互いに騙し合わないのと同じだ」

警察と犯人の騙し合いが常に描かれる犯罪小説の中で、こういった相反する信条が大切にされるのはいいな、と思った。グレアムが妻モリーを安心させるために嘘をつき、罪悪感に駆られているシーンと隣り合っており、そこも胸に沁みた。

 

でも、それが「作者の伝えたいこと」かと問われると、そこまで重要な要素ではないよな……? という感じなのだ。

やはり、読者を没入させ楽しませることを追求した、『上質なエンタメ』であるという印象だった。

 

この認識はトロイの木馬よろしく潜伏し、下巻の「オチ」で私を混乱に陥れた。

 

レッド・ドラゴン 決定版〈下〉 (ハヤカワ文庫NV)

 

★下巻での誘導――悲劇を装うストーリー

ダラハイドへの感情の変化


上巻では「狂っている」ようにしか見えなかった殺人鬼ダラハイドが、下巻では読者にとって共感と応援の対象になる。
単に彼の半生に同情するだけではなく、己の狂気に抗う彼を心から応援したくなるのである。

そう、彼の半生は不遇そのものだ。母親に棄てられ、祖母には復讐の道具として利用され、去勢の恐怖を味わい、幾度となくトラウマを植え付けられる。
それらは母性への攻撃、幸福な家庭へのコンプレックス、殺人衝動と自己肯定の異常なリンクを生み出す。

ここまでなら「割とよくある」手法であろう――怠惰なオタクであり、ろくすっぽ作品数に触れていない私でも、この手の語り口には覚えがあった。大好きな「なく頃に」シリーズでも、このパターンが頻出する(34さんとか知的陵辱趣味の名探偵とか)。

私がこの作品を振り返って天晴と思ったのは、この「理解」や「同情」を、「共感」「好感」さらには「応援」へクラスアップさせていく手腕である。

 

ダラハイドへの好感度の調整


まず初めに、 ダラハイドが望まれない子供だったことを明かし、「そうだろうと思った」「知ってた」という読者の理解欲を満たす。
次に、祖母からの悪質な教育、異父兄弟からの理不尽な攻撃など、(真っ当な大人なら)同情せずにいられないエピソードを詰め込む。

驚嘆すべきはここからの調整力(バランス感覚とでも言おうか?)である。
ダラハイドは大人になり、十数年間、社会に適合するのだ。

成人した彼は軽犯罪を侵し(※1)、刑務所の代わりに軍隊での服役を選ぶ。そこで顔の手術を受け、外見がかなり改善される。

服役中に専門技術を身につけ、それを活かし仕事に就いた彼は、専門家として完璧に仕事をする。(完璧主義すぎて同僚には忌み嫌われている、という点がまた上手く印象を調節しているではないか。)
背は高く、外見のコンプレックスから肉体を鍛えることに執着し、身なりも常に立派に整えている。(このポジティブな描写は、上巻では伏せられていた――間違いなく、計算的に。)


このパートはさりげなく語られるが、彼を同情の対象から感情移入の対象へ引き上げるために、極めて重要だった。人は何かしら尊敬でき、憧れることのできる部分のある人物に共感したがるからだ。
誰だって完璧に仕事ができるならやりたいものだし、鍛え上げた精悍な肉体になりたいし、身なりを隙なく整えておきたいものだ(が、なかなかできない)。
(※1 ダラハイドは女性宅に「特に理由なく」侵入して捕まる。これはあまりにもさり気なく書き流される――たしかに、その後の重大犯罪に比べるととても軽い事件なのだが、ふつうは「特に理由なく」女性宅に侵入したりしない。本作に散りばめられたユーモアの中でも、特にお気に入りだ)

 さらに作者は、ダラハイドを全盲の女性・レバと出会わせ、彼の隠れた美点を描き出す。障害者のプライドに対する配慮や、してほしくないことを察する洞察力が彼には備わっていたというわけだ。

ダラハイドがレバへの好感を少しずつ芽生えさせていく、その描写のピュアなことといったら!

己は〈竜〉になるべき存在であると驕っていた彼が、レバの家に招かれてぎこちなく縮こまっている様子は、なんとも可愛らしい。筋骨隆々なルックスも相まって、まさに人家に竜が連れられてきた風情である。

平均的な読者がどうかは知らないが、私はこういう「恋愛が主題ではない作品に出てくる恋愛」が大好物なので、この辺りを読んでいた時は高揚の頂点であった。

 

読者の願望

 

ここに、物事がうまく運びそうな希望が見えてくる。ダラハイドは初めて、相手を殺すのではないやり方で、「おれの栄光」を分かち合えたら……と考えるようになる。読者の目に、彼の更生の道筋が見えるのだ。

もちろん、ダラハイドがいくら更生したところで、彼は既に11人を殺害している。ピカレスク小説ではないのだから、彼は必ず制裁を受けなければならない。

読者が(つまり私が)願うのは、精神的な救い、浄化である。

 

この辺りを読んでいるとき、私は下巻も残すところ5割ほどだと気づき、率直に「あとこれだけしかない!」と思った――普段なら「よし、半分まで読めた!」あるいは「まだこんなにあるのか」と考えるところである。

それほどにダラハイドが好きになっていたし、彼の人生の物語に浸っていたいと感じていたのだ。まさか死姦趣味のマザーファッカーで、しかも行為中の自分をかっこよくビデオに撮ろうとがんばっている異常性欲者にここまで傾倒するとは!

 

さらなる誘導――対立構造の導入

 

極めつけにトマスは、ダラハイドの殺人願望を〈竜〉という別人格に分裂させる。

もしかして『ニンジャスレイヤー』のナラクって、この辺から影響受けてます?

〈竜〉VSダラハイドの構図になることで、滅するべき悪は〈竜〉になり、読者はダラハイドを手放しに応援できるようになる。

ダラハイドはその期待に応えるかのように、美術館に乗り込み、〈竜〉の水彩画を喰らう。読者は手に汗握ってダラハイドの成功を応援してしまう。

(もちろんダラハイドのやっていることは迷惑極まりない犯罪であるし、美術品を後世に残すことの意義を軽視するわけではない。だがそんなことわかってんだよ! 今はひとりの人間の魂が救われるかどうかの瀬戸際なんだ! 大人しく見てろ! と、私は己の中の集団主義者相手に喧嘩腰になってしまった

 

 ダラハイドは見事に成し遂げる……が、帰ってきた彼を待ち受けていたのは、連続殺人犯の職場を突き止めたグレアム達だった。

逃亡中、葬ったはずの〈竜〉が再び現れ、ダラハイドの精神を揺さぶる。〈竜〉は主導権を奪い取り、ダラハイドになりすまし、レバに魔の手を伸ばすのだった。

 

美しい幕引き?

囚われたレバの視点で物語が進む間、私には「今のダラハイドはダラハイドなのか、〈竜〉なのか」をずっと考え続けた。レバの顔を殴るなど手荒な真似は〈ダラハイド〉のしたこととは思えなかったが、彼女を〈竜〉に渡したくないと涙を流す様子すら、〈竜〉の演技なのだろうか?

 

少なくとも、心中という選択がダラハイドの決定であることに疑いの予知はなかった。

彼は自殺し、レバは彼の死体から鍵を奪い、命からがら逃げ出した……

 

レバが生き残ること(と同時にダラハイドとの悲劇的な別れが訪れること)は、予期していた通りだった。ダラハイドが彼女を殺すか殺すまいかと考え始めた辺りから、そういう結末で「バランスを取る」であろうと私は察していた。

 

ダラハイドは狂気と混乱の中で溺れ死に、その最期は痛ましく悲しかった。しかし、彼に用意されたこの「罰」は、妥当なのかもしれないとも思った。

 

彼はレバを愛し、殺人衝動を失ったが、今まで殺した人々に対して深く悔いることはなかった。また、殺人をやめるという断固たる決意をしたわけでもなかった。

結局、彼の視点は自分中心の閉じた輪から抜け出ておらず、それは「一般的な」人々とは相容れない――。私はこの結末をそういうものとして捉えた。

 

グレアムが駆けつけたのは全てが終わった後だった。彼はレバに、彼女は怪物を惹きつけたのではなく、怪物に取り憑かれた男を惹きつけたのだと語る。彼の推測は今回も正しいものだ。

私はシャーマン家の人々のことをすっかり忘れていたのだが、たしかにダラハイドがレバと出会わなかったら、彼らは犠牲になっていたのかもしれない。

グレアムの言葉で悲劇は締め括られた。彼は家族のもとへ帰っていった……

 

あれ? なんだこのページの余りは?

 

★結末――悲劇の皮を剥いで現れる「なにか」

違和感、そして「オチ」

 

家族との絆が蘇るのを描くエピローグ……にしては長い、長くない?

愚かなことに、私はここまできて「残りのページをぱらぱらめくり読む」という愚行を冒してしまった。そして、ダラハイドが軒下から飛び出してグレアムに襲いかかる段落を目にした。

 

( д) ゚ ゚

 

 この驚きはもちろん、トリックによるものでもあった。私はダラハイドの死を全く疑っていなかった(思えば顎の骨が焼け跡から見つかったことなど、かえってメタ的に疑わしくなるような情報は出ていたのだが)。

しかしそれ以上に、「なんで?」というクエスチョンが頭を埋め尽くした。

 

なんでここにきてダラハイドがグレアムを殺そうとするの? 君はもう歪んだ承認欲求から開放されて、グレアムに中傷されたことへの報復なんか忘れ去っていたでしょう??

 

慌ててページをさかのぼり、順に読んだ……

グレアムは妻子と気持ちがすれ違い続けていた……グレアムは自分がどこへ行っても嫌われ者であることにうんざりしていた(それは私には、幼少期のダラハイドの境遇を連想させる)……

家の近くに潜んでいたダラハイドが襲いかかってくる……直前に家へ戻っていたモリーが襲われなかったことから、狙いはグレアムだとわかる……

グレアムは重傷を負い倒れる……モリーがダラハイドを殴りつけ、ダラハイドはモリーへ標的を変える……起き上がったグレアムは、ダラハイドが行ったのと反対の方向に駆け出し、離れる……

 

ここで2つ目の混乱が起こった。 グレアムはダラハイドの後を追わず、逃げ出した。

ダラハイドが最愛の妻を追いかけているのに、である。

 

そりゃあ、グレアムが頬をナイフでぐっさり刺されていることを考えれば、彼が追いすがったところで、何もできず力尽きるだけかもしれない。

けれども、そんな説明は一切入らない。ただグレアムは「ダラハイドから離れようと」走り、そして再び倒れる。

今までグレアムが発揮してきた自己犠牲の精神、妻子を守ることへの義務感と、この行動はまるで噛み合わなかった。

 

モリーは家に駆け込んで、息子ウィルを別室に隠す。拳銃を構え、ドアが開け放たれた瞬間に発砲する(相手の顔を確認する前に)。

ダラハイドは足を撃ち抜かれながら「お母さん!」と叫ぶ。

 

ここで3つ目の混乱が起こる。このセリフはどう見たって、ダラハイドの「気が狂っている」ことを表現している……

この狂気は、これまで異常犯罪を繰り返してきた間の狂気とは質が異なる。

ダラハイドは殺す相手をほかの誰かと誤認したことは一度もなかった。彼は殺人を行う間、興奮してはいたが錯乱したことは一度もなかったのだ。

 

モリーがダラハイドをオーバーキル気味に射ち殺た後、視点は息子ウィルへと移る……ウィルが下階へ降りたとき、母モリーシャワーを浴び、返り血を洗い落としていた。

グレアムに救急車を呼ぶことも、息子に無事を伝えることもせず。

 

今までモリーについては特に言及しなかったが、彼女はごく一般的な市民であり、愛情深い母親であり、我慢強い妻だった。病的な精神の片鱗を見せたことなど一度もなかった。

このシーンは、そういった人間性への評価を覆すものではないと感じた。異常な状況に置かれ、異常な行動(殺人)を取れば、誰だって一時的な狂気に陥るだろう。

 

その一方で、神の視点をもつ私は考えずにいられなかった。このグレアムへの冷淡(ってレベルじゃねーぞ!)な仕打ちは、彼が一人逃げ出そうとしたことへの報いなのではないかと。

 

ビターエンドなんかじゃない

 最終章のグレアムはずっと病院のベッドから動けない。

手術が済み、傷はやがて癒えるだろう……が、家族との絆は二度と戻らないことが暗示される。面会に来たモリーの隣に息子ウィルの姿はなく、グレアムが居場所を訊ねると、祖父母(孫であるウィルを手元に置きたがっているが、グレアムを嫌っている)のもとへ行っていると言う。

グレアムは考える。「顔の傷が治るまでは、モリーを引き留めておけるだろう」と。

 

他の方のレビューに、この作品は「苦い」終わり方だと評するものがあったが、私は断言したい。これはビターどころじゃないバッドエンドである。

 

確かに連続殺人事件は終息した。しかしグレアムが物語の冒頭で奪われた「家族との平穏な生活」は戻らず、それどころか愛や絆を壊され、復活の希望も絶たれた。

もうひとりの主人公ダラハイドも、一度は取り戻した精神の均衡や成長を、最期には再び失っていた(以前より悪いくらいの状態に退化していた)。

世の中には平和が戻ったかもしれないが、その「世の中」はグレアムを不吉の象徴と見なして拒絶する。

二人の主人公たちに感情移入しきっていた私の精神はボロボロである。

 

突き放される読者

物語は、グレアムがベッドの上で昔行った場所の夢を見ているシーンで終わる。 

シャローム南北戦争の激戦地)で、グレアムは美しい自然に囲まれてくつろいでいた……が、蛇が道路上で車に轢かれ、のたうち回っているのを目にする。

彼は衝動的に、蛇を道路に叩きつけてとどめを刺し、池に放り込んで視界から消し去る。

 その時のことを思い返し、グレアムは考える。慈愛も殺人も、人間が生みだしたものだ。シャローム(場所)は呪われてなんかいない。なにかに取り憑かれてなんかいない。呪いは人間が作り出すのだ、と。

 

いや、いきなりそんな哲学的に悟られてもわからんぞ!?

 

なんだこれは!? 失いっぱなしで何ひとつこの両手に残ってないじゃないか!

と、私は喪失感の中に置いてけぼりにされたのだった。

 

私はバッドエンド、鬱エンドの娯楽も楽しめるほうである。むしろ、そういう闇の要素がある作品のほうが大抵、オリジナリティがあって面白いような気がする。

しかし、この時は心底、混乱というか困惑していた。

 

私はこの作品を「作者の主張」を訴えるためではなく、読み手を作品の空間に没入させ、スリルを味合わせることを重視して書かれた娯楽作品だと思っていたのだ、つい先ほどまで。

それほどまでに、この作品はこちらの期待に応えてきた。遊園地のコースターのような切れ目ない設計と操縦で、読み手の感情を操り、懇切丁寧に運んできたのだ。

それなのに、読み手の最上級の関心事である、「欠落したものを取り戻す達成感」――カタルシスが与えられないとは、どうしたことであろうか?

 

そしてもうひとつ、私にとって不可解なのは、ダラハイドの変化であった。

つまり、姿を隠してからグレアムを殺しに現れるまでに、彼の心の中でなにが起こったのか、という問題だった。

このふたつの謎を自分なりに読み解いたとき、私はラストシーンの夢の意味を理解し、大きな反転を味わったのだった。

 

★ 隠された道筋――ダラハイドに何があったのか?

「ストーリーのため」の登場人物?

心情的な問題を抜きにして、推理小説的「トリック」のみを見ても、ダラハイドの偽装自殺と再登場は衝撃的だった。

この小説を読んだのは、『大どんでん返し創作法: 面白い物語を作るには』で紹介されていたからだと書いた。そこで触れられていた構成の見事さとは、この「死んだと思ったら実は生きていた」トリックを指すのだろう。

 

しかし、トマス・ハリス氏はトリックのためだけにダラハイドを生かしたのだろうか?

 

見事なトリックでオチを作り、読者をびっくりさせる――そのようなストーリー構成のためだけに、ダラハイドは駒として「動かされ」、脈絡なく狂気に陥り、理由なくグレアムを標的にしたのだろうか?

 

作者への信頼

この小説は、上巻ではグレアム、下巻ではダラハイドの心情を丁寧に丁寧に綴ってきた。

行動描写、象徴的なモチーフ、他のキャラクターからの評価。様々なテクニックで、より客観的に、より読者が想像力を働かせやすいように工夫されていた。

 

しかしこの心情描写が、ダラハイドの偽装死から再登場、そして殺されるまでの間ではすっぽりと抜け落ちる。

 

 すっかり感情移入していた相手が、突如として謎の心変わりを起こしたように見え、私は戸惑った。

しかし、落ち着いて考えてみると、今までキャラクターの心情を何よりも大切にして行動とその動機を描いてきた作者が、ここにきて「ストーリーのためにキャラクターを歪める」ような手落ちを冒すだろうか? どうしてもそうは思えなかった。

 

 それならば、終盤のダラハイドの心情は、あえて「隠された」のではないだろうか。

読者という神の目に映されなかっただけで、彼の心情のレールはしっかりと繋がったまま、舞台裏を走っていたのではないだろうか。

否、そうであるはずだ。作者トマスは語っているではないか。「小説を書くときに理解していなくてはいけないことのひとつ、それはものごとをでっちあげてはならないということだ」と。

 

真実を見通すためのヒント

私が理解を得るヒントになったのは、入院中のグレアムに届いたレクターの手紙だ。 

中でも引っかかったのは、手紙の末尾、「きみのことをたびたび思い出しているよ」という一文だ。

 

この小説には「無駄な文」「無駄なシーン」というものが無かった。 ならば、このちょっとした挨拶のような軽い調子の手紙にも、「必要性」があったはずなのだ。

 

この手紙は前に届いた手紙と同様、グレアムの感情を逆なですることが目的の嫌がらせである。気遣いの言葉が綴られているが、そもそもダラハイドにグレアムの住所を教えたのは誰だったか?

彼はグレアムが嫌がるであろう言葉を的確に投げかける――自分達は同類であると強調し、トラウマを抉る。

そして、「きみのことをたびたび思い出しているよ」という言葉。これは、今後もグレアムを逃さないという意思表示だ。

自分を牢獄へ追いやったお前、自分の「同類」であり興味対象の関心であるお前を、永遠に解放しないという宣告だ。

 

ここに見えるのは、異様な執念深さだ。憎悪と殺意。理解と親しみ。それらが入り混じり、支配欲のようななにか――もはや「呪い」と呼ぶにふさわしい妄執となって、対象へ向けられている。

 

それに気付いたとき、私の中で連想が生まれた――この、理性では説明困難な執念深さこそが、ダラハイドがグレアムのもとに現れた原因ではないかと。

 

彼は論理的な理由あってグレアムに執着したのではない。自分を失敗へ追いやったもの、希望や尊厳を取り上げたものの〈象徴〉だと見なしたのだ。

そして、その執着が【殺人】という攻撃的行動へ変換される理由が、「シャロームの夢」で語られているのだ。

 

象徴的な行動の意味するもの

 「呪いは超自然的なものではなく、人間が生みだすのだ(要約)」というグレアムの悟りが、〈竜〉を想定しているのだということは一読目からわかった。

そのセリフは、グレアムがレバを慰めるために語った、「ダラハイドは怪物に取り憑かれていたのだ(要約)」というセリフに対応している。

人間に取り憑く怪物など存在せず、どんな残虐な狂気も人間自身の内から生まれ出る――彼の結論を整理すると、そういう意味になる。

 だが、この結論があまりにも唐突に(シャロームの夢ともども)降って湧いたように見えて、当初の私は理解できなかったのだ。それが観念的で、一般化されていて、言うなれば誰にでも思いつく陳腐な発想であることも、私に受け入れ難さを感じさせた。

 

ぎょっとしたのは、上巻の読書ノートを見返した時だった。

 

「主人公は自分が異常殺人犯と似通った精神をもっているのではないかと悩んでいるが、と殺人犯の人間性は、まるで異なる。いくら行動を推察し、トレースしたところで、それは表面的なものに過ぎない。大量殺人者の思考と倫理観は、大量殺人者ではない者のそれとはかけ離れているのだ

 

真逆だ。

上巻を読み終えた時点と、下巻を読み終えた時点で、この本は読者が「人間性」に対して真逆の考えを抱くように誘導しているのだ。

もしも記録していなかったなら、私は己が凄まじい手のひら返しをしたことに気づいただろうか。

 

これは単に、「異常者にしか見えなかった犯人の事情を描くことで、読者の同情を惹き、葛藤を起こさせる」という(よくある)手ではない。

反転させられているのは、あるキャラクターに対する第三者的な評価ではなく、読者が抱いている人間性への見方だからだ。

上巻を読み終えた時点で(つまりグレアムに感情移入し、ダラハイドの異常な思考回路にドン引きしている時点で)、狂気は異常者のみに備わっているのではなく、すべての人間の内から(条件次第で)生まれてくるのだなんて、誰が考えるだろう?

 

加えて、シャロームの夢で蛇を殺したエピソードは、この【狂気】というステータス異常を、より具体的に理解するためのエピソードなのだと気づいた。

蛇を道路に叩きつけて頭を粉砕する描写は、モリーがダラハイドの頭部を木っ端微塵になるまで銃撃した行動と、類比されているのだ。

 

両者の行動に共通するものを的確に言い表すのは、私には難しい……が、不快や恐怖をもたらすものを排除したいという、原始的で猛烈な衝動は伝わってくる。

この原始的な本能こそが、「ウイルスのように」「慈愛や殺人を生みだす」ものであり、すべての人間の奥底にあり、何らかの条件で表層へ浮上してくる……という思いつきが、グレアムの得た悟りなのだ。

 

ダラハイドが幸福な一家を無残な姿へ変えることに執着し、母親を死姦し、歪な噛み跡を残すのも、同じ「不快や恐怖をもたらすものを排除したい衝動」が根底にあったのだ。

 

私の解答、そして

もう一度ダラハイドの軌跡を追う作業に戻ろう。

偽装死の計画は〈竜〉が立てたものだから、失踪時点では〈竜〉が彼を主導していたはずだ……しかし、モリーと対峙したダラハイドは〈竜〉ではなかった。

 

これは想像だが、〈竜〉になるという希望も、レバに愛されるという希望も失ったダラハイドの精神は、破滅へ突き進むのみとなったのだろう。

おそらく、彼は〈竜〉を消失したのだ……〈竜〉が彼を捨てたのか、彼が〈竜〉を捨てたのか、それはわからない。

しかし、〈竜〉になるという形での自己実現を拒絶したダラハイドは、〈竜〉とともに居られなくなったのだろう。(現実的にも、彼がこれまでのような緻密な犯行を続けることは不可能だった。)

 

希望と自尊心を失ってしまった人間に残された道は、現実を否認することだけだ。

彼に残ったのは、グレアムへの理性抜きの執着と、原始的衝動、そして錯乱だけだった。

 

 

 ここまで考えて、私はやっと隠された道筋を掘り出した気分で、満足しながらページをめくっていた。

作者が本の締めくくりに引用した格言が目に入ってきた……

 

「人は観るものしか見えないし、
 観るのはすでに心の中にあるものばかりである」

 

 ( ゚д゚)   ( ゚д゚ )

 


★終わりに――バッドエンドである必要性

傷を刻む、だけではなく

この作品は、没入して楽しむ娯楽としてだけではなく、人間性に対する読者の無自覚な認識を自覚させることを狙って書かれたものでもあった。

 

物語が心情的バッドエンドに終わったのは、このために必要なことだった。グレアムが己の精神の奥底を覗き、殺人衝動の根源を見つけることができたのは、殺伐とした孤独の中に置かれていたからこそだ。

幸福な家庭を取り戻した状況では、彼は心の闇を覗き込まず、「自分の中にも同じ衝動が潜んでいる」という結論に至れないのだ。――否、至らせることはできるかもしれないが、真実味が損なわれてしまうのだ。

 

作者ほどの語り手なら、細部をちょちょいと変えて、読者によりわかりやすい満足感をもたらす「成功」の結末へもっていくこともできただろう。

それをしなかったのは、結論に真実味をもたせて読者へ突きつけるためなのだ。

単に失敗の苦さを味あわせ、(私のような)感情移入しやすい読者の心に傷を刻むという、小手先のテクニックのためではなかった。

 

魔術じみた筆力ゆえに

テクニックを軽視するような言い方をしてしまったが、そもそも作者が巧みな文章技術を持っていなかったら、私がこんな長文を生成するには至らなかった。

もしも作者のテクニックや作品の洗練度に対し疑念を抱いていたら、ダラハイドの最期やバッドエンドの幕引きに、落胆するだけで終わっていたかもしれない。完璧な「エンタメ小説」だった上巻があったからこそ、私は動かされ、グレアムが覗いたのと同じ深淵を覗くことができた。

この『どんでん返し』は、アイデアだけでは創り出し得ないものだ。魔術じみた筆力による体験をさせてもらったことに感謝している。

 

世間では、レクター博士のことを、刑事役と犯人の双方を操って楽しむ「神」のようなものだと形容しているそうだ。

しかし、そのさらなる上位に、トマス・ハリスが鎮座して、読者を指先で操っている……そんな光景を私はイメージした。

 

★蛇足

世間的にはレクターといえば、例のスキンヘッドの眼力が強いおじさん(おじいさん?)のようだ。もっと若いイメージだったのだ……

とはいえ映画版も評価がよいようなので、書評もやっと書き終えたことだし、観てみることにしよう。

羊たちの沈黙」も手元に届いているので、どちらから先に手をつけるか迷うところである。

 

 読書ノートをまとめるのに数日、この記事を書き上げるのに丸々二週間かかっており、こんなペースでは世の過ぎ去るスピードに置き去りにされている感しかない。

まぁネット上に公開したものは永続的に残るから、たとえ続かなくても無意味ではなかろう(たぶん)。

 

レッド・ドラゴンの熱烈なファンの方がここまで読んでくれる可能性もなきにしもあらずである。

お読みいただきありがとうございました。